九谷焼

ノリタケ


九谷焼について
九谷焼の発祥の地は石川県の山中町九谷で、現在の九谷焼とは石川県の能美市寺井町を中心に金沢市、加賀市、小松市などの地域で焼かれる色絵の磁器を言います。
その九谷焼の特徴は“九谷五彩”と言われる赤・黄・緑・紫・紺青の上絵付された色彩が第一に挙げられます。この九谷焼独特の色使いは、日本画の巨匠、狩野派の久隈守景の影響といわれています。この九谷五彩で1655年頃から焼かれた古九谷から、最近の九谷焼まで、それぞれの時代特有の絵柄と焼き物を作り続けてきました。
その代表的なデザインには古い時代から順に古九谷、木米(もくべい)、吉田屋、飯田屋、庄三(しょうざ)、永楽があります。技法も代表的なものに銀彩、釉裏金彩(ゆうりきんさい)、彩釉(さいゆう)、粒(ちぶ)があります。

九谷焼の代表的なデザイン
古九谷
木米
吉田屋
《 古九谷 》 《 木米 》 《 吉田屋 》
飯田屋
庄三
永楽
《 飯田屋 》 《 庄三 》 《 永楽 》
1.古九谷        1655年(明暦元年)〜
大聖寺藩初代藩主前田利治が後藤才次郎に命じて山中町九谷(現在の石川県加賀市山中温泉)で焼かれた磁器で、赤・黄・紫・紺青・緑(青)の九谷五彩で絵付けした日本画的な様式です。
2.木米(もくべい)   1807年(文化4年)〜
江戸、徳川時代の成熟期初期に窯がはじめられ、素地に赤を施し中国風の人物を描いたデザインです。
3.吉田屋        1824年(文政7年)〜
豪商吉田屋伝右衛門が九谷焼を再興する目的で開いた窯で、青手古九谷の塗埋様式を用いた様式です。
九谷五彩とは異なる黄・紺青・緑(青)・紫の4色で様々な文様を描き、生地の全面を絵で埋め
生地が全く表面に現れていないのが特徴です。
4.飯田屋        1831年(天保2年)〜
吉田屋を引き継いだ宮元屋窯で作られた様式で、赤で綿密に人を描き、その周囲を小紋などで埋めつくし、さらに金彩を加えた赤絵細密画です。
5.庄三(しょうざ)    1841年(天保12年)〜
古九谷・吉田屋・飯田屋の特徴的な様式を融合し、九谷庄三が確立した彩色金襴手のよる独特な様式。
6.永楽(えいらく)  1865年(慶応元年)〜
加賀藩分家である大聖寺藩が開いた九谷本窯で焼かれた焼き物の様式です。
京都の永楽和全により金襴手による手法で、生地全面を赤で施し、その上に金のみで彩色した大変に豪華な焼き物です。

九谷焼の技法
1.銀彩
生地に銀箔ほ貼り、その上に五彩や透明な釉薬を施し焼成する技法。銀箔が剥がれず変色もしないと言う特徴がある。
2.釉裏金彩(ゆうりきんさい)
通常は釉薬を施し焼成した上に金箔を貼り付けますが、釉裏金彩は金粉や多彩な形状にデザインされた金箔を貼り、その上から透明な釉薬を施し焼成します。
釉薬の下に金があり、金が浮き出て見えるため、銀彩と同じようにデザインが優しく上品です。
3.彩釉(さいゆう)
九谷五彩の釉薬を緻密なデザインで生地全体に施し塗り埋める技法で、複数の釉薬を重ねて塗ることにより、微妙なグラデーションと色調の変化を表現することが可能な技法です。
4.粒(ちぶ)
一陳(いっちん・一珍)と呼ばれる道具を用い粒と呼ばれる細かい点を盛り上げる技法です。
盛り上がった点の大きさや色、余白の均一さなどが要求される高度な技術です。緑色の粒の青粒の他、白粒、金粒などがあります。
5.花詰(はなづめ)
金彩・銀彩・九谷五彩の絵付けによって菊や牡丹などの花を生地全体に覆うように描く豪華絢爛な技法です。
6.盛
西太吉が盛絵付の技術を取り入れた技法。デコ盛絵具を一陳と呼ばれる道具を用い粒などのデザインで立体的な模様の加飾が特徴的です。

銀彩
釉裏金彩
彩釉
《 銀彩 》 《 釉裏金彩 》 《 彩釉 》
粒
花詰
盛
《 粒 》 《 花詰 》 《 盛 》


古九谷の謎 九谷か有田か?
昭和初期の頃から、九谷焼の中でも1655年頃から焼かれた古九谷と呼ばれる焼き物は『実は有田焼』『古九谷は九谷焼』と議論が続けられています。
それは有田焼の窯の跡地から古九谷と同じ絵柄の染付や色絵の焼き物の欠片が出土していることや、山中町九谷の古窯で出土した焼き物の欠片が古九谷と言われている焼き物の生地とは似つかないものであったこと、また古九谷の焼き物の裏に描かれた染付文様と酷似した磁片が昭和30年代の有田での肥前古窯跡の発掘調査で発見されたことから『古九谷は有田で焼かれた磁器ではないか?』とする説が出され、このことから『古九谷は初期有田焼の色絵である』と言う学説が有力になりました。
しかし、古九谷の磁器は大聖寺藩の命で現在の山中町九谷で行われていたと言われており、九谷の古い窯を発掘調査した際に色絵の磁器片が発見され、平成10年の石川県埋蔵文化財センターの発表に、九谷の古い窯跡から200メートル程の遺跡で『色絵卍文色見陶磁片』が発見されたことから、焼成も絵付も九谷の地で行われていたとの説が強くなりました。
では、山中町九谷の古窯で出土した焼き物の欠片が古九谷と言われている焼き物の生地とは似つかないものであったことは、どのように説明すれば良いのでしょうか?
九谷焼に関する現在の一般論は良質の磁石が発見された九谷で1655年(明暦元年)から加賀百万石の財力により藩の窯として大聖寺藩初代藩主前田利治が後藤才次郎に命じて作らせたのもが九谷焼の始まりと言われていますが、その時代の九谷焼は約45年間の短い間しか生産されませんでした。
九谷に於ける初期の窯は発掘調査で斜面に築かれた連房式登窯であることがわかっていますが、発掘された磁器の欠片などから窯の中での焼成温度はあまり上がらなかったことがわかっています。
九谷の古い窯で焼かれた生地は鉄分が多く、焼成温度が低いために白く焼くことが出来ず粗雑な肌合いのものでした。そのために、その生地の表面を隠すために生地の全てを絵で覆う九谷焼が発展したのでしょうか?
その後、最初の目的は磁器を焼く窯であったかも知れませんが、それらの窯は色絵付を目的に使用されたとする説もあります。
仮説ですが、良質な白い生地を作れなかった九谷では良質の生地が焼成される有田から生地を購入したのではないかと言う説があります。
前田利常は長崎平戸に加賀藩の出張所を設け、海外からの輸入品を買い付ける家来を常駐させていて、当然彼等は東インド会社によりヨーロッパへ輸出される白い生地の有田焼“伊万里”を見ていたはずです。
磁器を焼くのに藩の土地の窯で生地作った場合に良い生地を作れないとしたら、加賀百万石程の財力があれば無理して生地を作るより良い生地を買って絵付けをした方が合理的で経済的だと考えるのは自然なことでしょう。
何よりそれに、加賀藩は北前船を所有し海運を行っていたのです。
『古九谷か有田か?』の議論は未だに結論が出ていません。しかし、古くから九谷に『絵付を離れて存在しない』という言葉があります。この言葉の意味を考えると、生地はどこの産地のものであっても『絵付が九谷の生命』であると言うことは間違いないようです。



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